母の遺品の片付け、母の生き方、母の病

母が亡くなる少し前から遺品整理や粗大ごみの片付けを始めました。

私は結婚して家を出ていて、母が病気になってからは、度々介護のために実家へ戻っていました。最後の介護の時、素人の私にも、母の死は避けられず、遠からず母は亡くなることが分かり、まずは粗大ごみの整理から始めました。家が狭い上に、物で溢れかえっていて、恐らく、葬儀の時に棺桶の出入りができなんじゃないかという危惧からです。それに、弔問に来てくださる方たちの居場所を確保するためにもしなければなりませんでした。それぐらい、実家は物で溢れかえっていました。

古い箱型のミシンや、勿体無いと物入れに使っていた元電子レンジの置き台にテレビ台など、数回に分け、車に乗せて町の処分場へ持って行きました。思いが詰まっている物を、しかもまだ母の息があるうちに処分するのは心苦しいものがありましたが、仕方ありませんでした。

暫くして、母は亡くなりました。ほかの家族は、母の死に脱力していましたが、そんな暇はありません。私は次の日から母のためにやってくる人たちのため、そして母のために、夜を徹して物を片付け続けました。葬儀が終わった後も、遺品整理を含め、片付け続けました。新品の下着、ブランド物の真新しい服やバッグなどなど。新品の物やアクセサリー類は、母の身近だった方たちにもらっていただき、あとはリサイクルセンターなどを利用しました。とにかく物を処分する日々が続きました。

一心不乱に片付け続け、ふと家を見回した時、家の中には空間ができ、のんびりと体を伸ばして寛げる場所がありました。なんとなく、母がそこに居るような気がしました。

母は物持ちだったと思います。でも、本当にそれらは必要だったんだろうか。もっとシンプルに要る物だけで、すっきりと暮らしていたら、心持ちも違っていたんじゃないか。たかが物、されど物。数日間、物を片付け続けている内に、母の生き方に触れた気がしました。母は随分と要らない物を自ら背負って、生きていたのかもしれません。そんな母の心持ちが大量の物に反映されている気がしました。

そして、もし、もっとシンプルに生きられていたら、こんな重い病にも罹っていなかったんじゃないか。すっきりとし、清浄な空気すら感じられる家の中で、今更ながらですが、そんなことを考えました。